「ほら、もう窓を閉めて。雨が入るから」
 少女はまだ諦めきれないように開け放した窓から外を見ていた。

 引っ越しのトラックはもうこの町を出て行ってしまっていた。雨が降り始めたら面倒だからと、早朝からやって来た引っ越し業者は、多くはない家財道具を一時間足らずで小さなトラックに詰め込んでしまった。
 祖父の軽自動車が少女とその數學老師母親を迎えに来たとき、雨は降り始めていた。

 両親が離婚し、少女は母の実家である丹波の山の中に引っ越すことになった。
 天野川よりもっと綺麗な川があって、山は緑豊かで、野菜は美味しいし、星がいっぱい見えるのよ、と母親は言った。でも、その場所には七夕の伝説はないだろう。

 数年前、幼稚園で演じた織姫様。あの時からすでに両親は上手くいっていなかったのに、父親は優しい顔で舞台の上の娘の晴れ姿をビデオに撮っていた。
 七夕の度に両親に手を繋がれてお参りした機物(はたもの)神社。参道の両脇に立てられた大きな笹に下げられた沢山の色とりどりの願い事。
 七夕の日にこの町を去ることになったのは偶然だが、それは巡り合わせだったのかもしれない。

 軽自動車に乗ってから、少女はずっと俯いていた。車は機物神社の傍を通った。短冊に願い事を書いてからこの町を出ようかと、母親が言った。
 少女はようやく顔を上げた。そして赤い短冊に願い事を書いた。

 お父さんとお母さんがなかなおりできますように。

 母親が見せてと言ったが、後ろに隠し、社務所の前に置かれた箱の中にそっと入れた。
 降り始めた雨で色とりどりの短冊が濡れていた。

 お金持ちになれますように。宝くじが当たりますように。おじいちゃんの病気が治りますように。お母さんが牛になりますように。仮面ライダーになりたい。アンパンマンのあんこになりたい。東大に合格できますように。世界が平和でありますように。髪の毛がこれ以上抜けませんように。阪神が何かの間違いで優勝しますように。彼と一生幸せに暮らせますように。
 少女にはどれが実現可能な願いで、どれが不可能な願いなのか、区別はつかなかった。

 母親と一緒に車に戻り、乗ろうとしたとき、足元に一枚の短冊が落ちていることに気が付いた。
 短冊の淡い碧色は晴れた空の色だった。そこに綺麗な字でまるで手紙のようにたくさんの言葉が書かれていた。少女にはもちろん、読めない文字がたくさん綴られていた。

 雨が少しだけ強くなった。
 今年もまた織姫様と彦星様は会えないのかしら。
「早く乗って」
 母親の声に急かされて思わずその碧い短冊を拾い上げ、そのまま車に乗り込んだ。

 短冊には吊るすための紙縒りも糸もついていなかった。神社に持っていく前に落としてしまったのだろうか。
 一度だけ、少女は前の席に座る母親に声をかけようかと思った。祖父でもよかった。神社に戻って、この短冊を神社の笹に吊るしてあげたかった。だが二人の重く悲しそうな気配に言葉を飲み込んだ。

 代わりに窓を開けて外を見た。降り落ちる雨と、濡れていく町。いつも友達と一緒に遊んだ天野川の川原。全てが雨の向こうに掻き消えていく。
 少女は何かに縋るように碧い短冊を握りしめた。

 一号線に入る交差点を曲がって、天野川が見えなくなってから、もう一度母親が窓を閉めるように言った。少女はようやく窓を閉め、視線を上げた。

 もしも、いつか交野と枚方に跨る天野が原と呼ばれるこの癌症保健食品土地、七夕伝説の発祥の地に戻ってくる日があったら、今日書いた願い事がかなう日なのかもしれない。
 けれど、それはきっと叶わない方の願いなのだ。

 幼い心にもそのことだけははっきりと分かっていた。
 七夕に降る雨。今の暦では七月七日は梅雨の真っ最中だ。織姫と彦星は引き裂かれたまま、かささぎは雨の中で羽根を連ねて橋を作ってあげることもできず、同じようにどこかの木の陰で濡れているのだろう。