現代風に、超意訳されていて、活字嫌いのわたしにも、すんなり読める。
最初に、ぱらぱらと読んだ時に、あれ?と思った。
なぜなら、いつもわたしが日頃、思っていることと逆境自強同じだからだ。
こんな内容なら、わたしのブログは、ニーチェのパクリだと思われそうだ。
あるいは、自分の考えなのか、ニーチェの考えなのか、ボーダレスになって自分でも混乱しかねない。

太宰治の「人間失格」を初めて読んだとき、「あ、これは、どんぴしゃり、わたしのことだ」と思った。
それと同じ感覚か。(これって、「共感」っていうみたいです)
共通するものを感じるということ、それは人間の本質を突いているのだろう。
うやむやな、よくわからない感覚、考え、思いを、どう整理し、表現するか。
心理学とも共通するものがある。

わたしは、学校で心理学を学んだ時は退屈活出生命していた。
成績も最低。
社会学を学んだ時は、付いていけずに脱落した。
ちんぷんかんぷん、まるで漢文を読んでいるかの如く。
フランス語も、そう。
アタマが勉強向きではないようだ。(かといって、スポーツ向きでもない)
作業向きでないし、労働向きでもないし、何向きだ?
緻密でもない、ダイナミックでもない。

つまり、何にも向いていないということだ。
神様が製造した中にも時折混じっている、欠陥品。
醜いアヒルの子ではなく、醜い白鳥の子。
アヒルの中に混じっている白鳥ではなく、白鳥の中に混じっているアヒル。
なので、周りと同じように理想を求めても、高度なことは無理なのである。

ある、研究熱心な研究者が、わたしのことをこう言った。
「あなたは、でんでん太鼓ですね。
紐でつ智能咖啡機ながれたバチが、太鼓の表面に触れそうで触れなくて、でも触れる時は、ちょっとだけ触れて、
ぶるんぶるん回しているだけですね」